昭和50年8月17日 朝の御理解
中村良一
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ、人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
今日は、ここのところを頂きましてから、今日の御理解は、どこを芯に頂かせていただこうかと思わせていただいておりましたら。御神訓に、「清き所も、汚き所もへだてなく天地乃神はお守りあるぞ。わが心に不浄を犯すな。」と言う御神訓を頂きました。勿論、天地金の神様は、この天地いっぱいに、その、御働きというか、言うなら、愛の働きというかが、みなぎっておい出られるのでございますから。もちろん、清き所もなからなければ、汚き所もない。問題は、頼む心に隔てがあってはならんし。自分の心に不浄を犯してはならんのです。不浄ということは、言うなら、おかげの受けられない心と。四神様は、御道でいう不浄とは、成就せぬことぞと仰っておられます。御道で言う不浄というのは、ね。汚いとか、例えば、赤不浄とか、黒不浄とかいったようなことを申しますけれども、そういうことではないのだと。自分の心に不浄を犯すということは、自分の心の中に、おかげの受けられないような心の状態を作るなと。不浄とは、成就せぬことを不浄というのだ。ね。だから、私共にとっても、これでは、悲しい事ですし、神様の側からご覧になりましてもです。ね。おかげを氏子が受けられないということは、神様のほうからとっても、やはり悲しいことなんです。私共の心に、だから、不浄を犯してはならないということ。と言う事を、まぁ、芯にして、今日の例えば、御理解を頂きますと、どこが、そういうことになるのだろうと思うんです。まぁ、人があれこれといってこそ、もう、枝には葉が付いて、良い事にしろ、悪い事にしろ、そういうですけれども、人の口には、確かに戸は閉てられぬと、昔から申しますように、ね。仕方がないほどに広がっていくものです。人の口には戸は閉てられぬ。ね。だから、そういうような場合であってもです。私共は、ね。それを神のヒレイと頂かせてもらうという事です。
まぁ、例えば、合楽教会の事を、とやこういう人が確かにあります。けれども、確かにあればあるほどです。合楽の、いうならば、ゴヒレイは益々輝いていく。誰が、そげなこつ言うたちのと言うて、私が、いちいち、腹かいておったら、もう、不浄に終わるでしょう。ね。不浄に終わるということは、おかげにならないでしょう。ところが、私の心の中には、ね。いやぁ、神様のゴヒレイじゃなと、決して、褒め言葉だけではなくても、悪口でも良い。人がとやこう言うておる間は、まぁだ、勢いがある証拠だ。言うなら、神のひれいじゃと言う頂き方を致しておりますから、ね。益々、ゴヒレイは輝いていくことになるのです。ゴヒレイを受けたいというならば、ね。その、神のヒレイじゃと仰せられるところをです。ただ、おかげを頂いて、隆々として繁盛していくというとこだけがヒレイでは無いという事です。それとは反対にです、ね。まぁ、場合には、悪口雑言ということもあるかも知れません。そういうことが、何時あったかと言うて、言うなら、腹を立てるようなことがあるかも知れません。けれども、心の中では、しれしれ笑うておれれるということ。いやぁ、人がまだ、そんなに悪口を言うてる間は、まぁだ、隆々たるゴヒレイが立つ証拠だと分からせてもらい。思わせて貰うとです。お礼を言わなきゃおれない心が成就する心なんです。もう、紙一重です。ね。同時に、そこのところと、ね。腹を立てなとこう仰っておられます。腹を立てなということは、まぁ、いうならば、ありとあらゆるおかげを受けるという事においてのです、ね。いうならば、おかげの受けものです。不平を言う、不足を言う。人を恨みつらみする。ね。というような、例えば、まぁ、おかげの、いうならば、不浄に終わらなければ出来ないような心の状態であります。ね。腹立ちとか、不平とか不足とかと。そこで、私共が、絶えず、自分の心の中に、ね、最近、言われる、もう心行一本と言われる。いつも心に掛けておかなければならないことであります。心を汚してはならん、けがしてはならん。不浄に終わるような心を使うて、はぁ、こういう心は、不浄になるのだと、その不浄を払うて行くという生き方。
昨日、ある先生が、私の上げた祝詞の事がです。まぁ、ここの祝詞はいつも変わってるとこう言う訳です。ね。そら、変わらなければ嘘です。願い事が、みんな同じということはないです。ね。それをたた、ご本部からの受け売りのような、同じ紋切り型の、私は祝詞であってはいけないと思うから、私の信心を、いうならば、打ち出しての、いわば祈願の祝詞でございます。だから、祓い詞も違うとったち言うわけです。ね。祓い詞というのは、一番、始まる前にあの、短いお祝詞が上がりますよね。どこが違うておったかというとその、あそこのとこはね、最後のところの、えー、罪けがれのあらもうばと、あそこは書かなきゃいけない。それを、ここんとは、口語文のごたるふうで、外のところは祝詞言葉で言うてから、あそこのとこだけは、お粗末御無礼のと書いてあった。いよいよ、頂き方ですよね。これは、私がいつも、その事を言っておりますから。西岡先生が書きましたんですけれども。私の信心を書いたわけです。御道の信心には、罪汚れなんというものが、あるはずはないんだと、私は確信してるんです。今も言う、不浄というのは、無いのですから。罪とか汚れとか言うものはないのだと。ただ、あるのはです、ね。私共の、不行き届きから起こってくるお粗末であり、御無礼なんだと。ね。と、言うわけでした。まぁ、大して説明もしませんでしたけれども、ま、何も分からんもんばっかりが作るとですから。もう、とにかく素人ばっかりの集まりですからという風に、私は申しましたけれども、実際は、玄人以上のものだと私は思うんです。本当の御道の信心を打ち出したんだと、私は自分で思うた。ね。罪汚れなんていうものは、金光教的じゃないです。だから、私は、あそこんところは、お粗末御無礼と、私が日頃、言うておるから、親先生が、何時もあぁ言われるから、ここはもう、お粗末御無礼と書きましたというから、うん、そら、それのほうがほんなこつですよと。まぁ、言った事でした。という様に、不浄というものは、自分の心次第なのだ。罪と思や罪になるだろう、汚れと思うたら汚れになるだろう。はぁ、便所は汚いところだと言うたら、汚いところになるだろう。ね。けども、汚いどころか、そういう、私共が汚いと思うところでも、天地の親神様は、ご守護お守りを下さってあるんだから、勿体ない。本当に勿体ないと思いをするところなんです。ね。
次に、例えば、腹を立てなとこう言われる。そこでほんなら、ね。これも神様のゴヒレイだと思うところに、腹が立つだんではない。心の中では、しれしれ笑いたいような、言うなら、お礼を申し上げるような心が生まれてくるんです。その辺のところがね。私共は、日頃、心行に心しておきませんとです。ついつい、腹が立ったり、不平が出たり、不足がするのです。不足が起こってくるのです。ね。いつも心行に心掛けさせていただく。私は本当に、昨日皆さんに、聞いていただきましたように思いました。神様に向かう心というものは、本当に有難いという、勿体ないという心で向かわなければ、特にそれが、ね。祈願で、願いである場合などは、本当に神様の心に叶うような心で祈願しなければ、願わなければ、ね。いけないのです。
私と、若先生が、私の部屋で装束を着けておる時に、一番下の孫が来てからもう、そのお手伝いをせにゃ出来んわけです。ね。いっちょでも取ってやらなければ。それがもう、ほかんとこ、足元でも、うろうろしますからね。もうせからしか、誰か子供を見とってくれりゃ良かところへ、これだけ手人数があるとに、誰も見てくれる人がないことをです。私が、ちょっと不足に思うた。やっぱ、不足は不足です。ね。今から、大事なお祭りを奉仕させてもらわなければならない。それこそ、有難い、勿体ないの、言うなら、最高潮の思いでお祭りを仕えさせてもらわなきゃならないと、ずっと、ほんならもう、言うなら、前の、まぁ、前々からですけれども、言うなら、前の晩から精進を重ねておるのです。それに、ふっとその、お祭り前の、いわば、忙しい中にですね。私が、あの、ちょっとそういう不平不足を思うた途端に、神様は甘木と言う字ですけれども。甘木には、木がちょっとね、書いてみましょうか。こういう風に頂いたんです。ね。こちらのほうへこう、甘木とはこげんでしょう。その、こちらのほうのとが無い所を頂いたです。ね。私は、もう本当にびっくりしました。はぁ、本当に、もう、これほど、ね。清まりに清まり、有難い心の状態を維持し続けなければならん。そういう風に思い続けておる、芯魚油をし続けておるような思いであっても、ちょっとした隙に、不平が出とる、不足が出とる。ね。それでは、せっかくの、この甘木の甘と言うのは、甘露の甘です。ね。甘露というのは、宗教的な言葉でしょうけれども、いわゆる、信心の喜びの極地ということでしょう。私の信心の喜び心というものがです。この甘木と言う、甘木というは、いうなら、甘露の心という意味でしょう。気は心ということでしょう。その気が心がです。片一方が欠けるぞと。もう、片一方が欠けたら、有難いという心にはならんのぞと言う事です。もう、本当にもう、神様は、有難いなと思いました。勿論、誰彼に言うことでは無い。自分の心のなかの事でございますから、本当に、これほど一生懸命努めておる心の中に、努めさせて頂いておるようでありましても、本当に、お粗末御無礼のあらもうばでありましてから、まぁ、直ぐおかげの取り直しが出来て、私の心は、またもとに、有難いという心に戻りましたんですけれども。ね。して見ると、私共は、随分、不浄の心というものを、日頃は、使っておるなという事です。もう、信心しよってね。腹を立てたり、不平不足を言うたりする事ほど、こげな馬鹿らしいことはないとですよ。おかげが成就していきよるとが、不成就に終わるです。だから、堂々巡りばっかりせんならんとです。ね。だから、もうほんなこつ、もう、一生腹は立てんち言うごたる気持ちでです。本当に腹を立てないことに、一生懸命努めると言う事、その事に大概心行なのです。ここでも、一二、そんな人がありますでしょうが、ね。文雄さんとか、あの、石井清さんなんかは、もう、腹立てちゃ馬鹿らしかと、もう、しかも知ってるんです。だから、腹を立てん事のための心行が、何時も出来よるわけです。おかげ頂くはずです。ね。
不浄とは、ね。成就せぬことだと。それこそ、清きところも、汚き所も、ね。有難いところだとして、例えば、おかげを受ける事も、ね。いうならば、苦いことも、甘いことも、おかげとして頂けれる。そこに不平も無からなければ、不足も無いという心の状態こそ、または、ね。人が顔にかかわるようなことを言うてもです。腹を立てなということは、腹を立てたら、いうなら、神が顔を洗うてやるというようなおかげになって来ないという事です。ね。
合楽のことを、合楽の先生のことを、人が色々言う。まぁ、いうなら、悪口を言う。どげな人じゃろかと思うて、会うてみた。御大祭を頂いてみた。ね。始めの間は、見げきとったつもりが、段々、有難うなって、涙がこぼれるほどに有難うなった。昨日、わざわざ、私、客殿に居ったら、その事を御礼に来た人がございました。今日は実は、誰々さんに、いわゆる、示現活動を受けて、ね。まぁ、参拝ではなくて、ね。見げ来たんだ。段々、お祭りを頂いていっておるうちにです、有難うなって来た。ね。おかげを頂いて有難い。いうならば、聞いておった事と、実際にここで、聞いてみることと、見ることは、相違が、大変な相違であったということが分かったと言うのです。でなかったら、あれだけの、いうならば、御大祭が奉仕されるはずがないち。世間で言うように、大坪さんは、ね。もう、とにかく、まぁ、良くない人だと、例えば、言うておるその、良くない人のところで、あれだけの人が集まるはずも無からなきゃ、助かるはずも無いという事。それを、ほんなら、私は思わせて頂くのに、どういうような場合であっても、私がそれを、不浄で受けないから。神のヒレイとして受けるから。神様の勢い、神様のおかげとして受けるから。ね。いうならば、その人のために、私の顔を、昨日は洗うて下さったという事になった。神が顔を洗うてやるという事は、このようなすっきりすることはありません。いいわけも要らなければ、何にも要りません。ね。とにかく、神様だけが御承知の世界に生き抜かせていただくという訳ですけれども。ね。ただ生き抜くというだけではいけん。不浄の心を起こさずに生き抜いていかなきゃいけません。ね。
皆さん、一つ、この事だけでも、良くしっかり覚えておいて下さいよ。私共が、不平不足を言うたりですよ、ね。有難い有難いという手おってもです。腹を立てたり、もやもやしたりしよる時には、もう、甘木の、言うならこの、木そのものが全部無い様な事が、ありはせんでしょうか。喜びの心、信心の心はもう、どこへやらとなってしまっている。ね。だから、そういう事があるです。決してその、自分の都合の良かごつばっかりは無いです。けれども、だから、日頃、心行しとかにゃいけんという事です。ね。それを例えば、簡単に言うと、ほんなら、もう一生腹は立てんというような修行をしておる人は、何時も、どげなこと言うたっちゃ腹は立てんという心行を、何時もこれにしとりますもん。ね。そして、はぁ、こげな時に腹を立てんと、おかげ頂く事が、よう体験の上で現れてきとりますもん。だから、石井清さんじゃないけれども、腹立てちゃ馬鹿らしかという答えが出てくるわけです。馬鹿らしいです。ね。もう、ほんなちょっと、ほんなら、不平の心、不足の心を起こしただけでも、この木の片一方が、こう無いですから、もう、欠けておる事になるのですね。これはまぁ、私は、昨日の場合は、もう、今から、神様へ向かわなければならない。沢山な人の祈願の、いわゆる、願いがあっておる、その願いを、私はお取次ぎさせてもらわなければならない寸前にある時ですから。もう、これから先の不浄も、不足も、言うならば、心の乱れを神様は、許さんというほどしの事であったと思うのです。ね。いわゆる、甘露の心をもって、信心の喜びいっぱいで、昨日のお祭りが、だから、奉仕させて頂けたという事になるのです。ほんの、出る寸前に、それを頂いて、改めて、私は有難いと思うた。ね。今日は、そういう、今日の九十六節をです、ね。全てのことを、例えば、神のヒレイじゃと受けれるということ、分かるということ。そこにはね。腹立ちも無いということ。そして、その向こうには、神が顔を洗うてやるというほどしの働きが起こってくるという事。不浄とは、ね。汚いとかという意味ではなくて、ね。汚れといったような事では無くて、不浄とは、ね。成就せぬことだと。特に私共の願いが成就せんというだけではなくて、そういうことではです。ね。例えばほんなら、高橋定利さんという上に、神様がおかげを下さろうとしておる、神様の願いが成就しない事になるです。もう、これは大変な事です。私共の願いは、こんくらいのこつですよ。一握りと言うたら、これだけの一握りの事です。神様の一握りを、高橋定利に恵もう、授けようと思うてござる。この神様の一握りはもう、限りがないです。ね。それにこの、高橋定利が、腹を立てた、不平不足を言うたということになるとです。その神様が、高橋定利に掛けておられるところの願いが不浄に終わるです。もうこんなに残念なことは無い。こんなに、神様としても、悲しい思いをなさることは無いと思うです。今日はね、もう、徹底したおかげの受け心と言う事を聞いていただきました。どうぞ。